宝福寺は、岡山県総社市井尻野に位置する臨済宗東福寺派の寺院で、山号は井山(いやま)、本尊は虚空蔵菩薩です。この寺は「宝福禅寺」とも呼ばれ、室町時代の画僧・雪舟が修行したことで広く知られています。雪舟が幼少期に修行したことから、宝福寺は中国地方屈指の名刹として名高い寺院です。
宝福寺は、画聖として知られる雪舟が修行を行った禅寺として有名です。幼少期の雪舟が涙でネズミの絵を描いたという逸話が伝わるこの寺は、禅宗の静かな佇まいとともに、室町時代中期に建立された三重塔を有しています。この三重塔は国の重要文化財に指定されており、春には新緑、秋には紅葉が楽しめる観光名所でもあります。また、宝福寺では毎月第2日曜日(8月を除く)に予約不要の座禅体験も行われ、多くの参拝者が訪れています。
宝福寺の創建年代は不明ですが、天台宗の寺として始まり、鎌倉時代中期に臨済宗に改宗されました。鎌倉時代、備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって、宝福寺は有力な禅宗寺院として発展しました。鈍庵が天皇の病気平癒を祈祷した際、壇前に星が落ち、その場所に井戸が掘られ「千尺井」と名付けられたことが山号「井山」の由来とされています。その後、宝福寺は天皇の勅願寺となり、塔頭・学院55、末寺300寺を数える巨刹として繁栄しました。
戦国時代には、宝福寺は備中兵乱に巻き込まれ、地元の戦国大名三村氏に味方したため、天正3年(1575年)に三重塔を残して伽藍のほとんどを戦火により失いました。その後、江戸時代に入ると再び復興され、山門、仏殿、方丈、庫裏、禅堂、鐘楼、経蔵などが再建され、禅宗様式の七堂伽藍を備える本格的な禅寺となりました。本堂にあたる仏殿は享保20年(1735年)に再建されました。
宝福寺の境内にある三重塔は、南北朝時代の永和2年(1376年)に建てられたもので、県下では美作市の長福寺に次いで2番目に古い塔です。この三重塔は、戦国時代の戦火を免れ、現在も宝福寺に残る唯一の建物です。三重塔は本瓦葺き、丹塗りで、各重のバランスが非常に良い名塔として知られています。昭和2年(1927年)に国の重要文化財に指定されました。
雪舟(せっしゅう)は応永27年(1420年)に備中国(現在の岡山県総社市)で生まれた水墨画家・禅僧で、その号は「雪舟」、諱は「等楊」と称しました。雪舟は幼少期に宝福寺で修行し、その後、京都の相国寺に移って修行を積みました。彼は画僧として、宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収し、各地を旅して写生に努め、日本独自の水墨画風を確立しました。
雪舟は、遣明船に同乗して中国に渡り、李在から中国の画法を学びました。明代の画壇に触れた雪舟は、その後帰国し、周防国や豊後国、石見国で創作活動を行いました。彼の作品は、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立し、その影響は後の日本画壇に大きな影響を与えました。彼の作品のうち『天橋立図』『秋冬山水図』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』の6点は国宝に指定されています。
宝福寺には、雪舟が幼少期に涙でネズミの絵を描いたという逸話が残されています。このエピソードは、絵を描くことが好きだった雪舟が修行を疎かにしたため、禅師が彼を柱に縛り付けたところ、雪舟が涙を流しながらネズミの絵を描いたというものです。この逸話は雪舟の才能と熱意を象徴するものであり、宝福寺を訪れる人々の間で広く語り継がれています。
宝福寺の登録有形文化財には以下の建物があります:
以上は平成21年(2009年)1月8日および同年4月28日に登録され、各建物は江戸時代中期から明治時代にかけて建立されました。
宝福寺は、臨済宗東福寺派の有力な寺院として、また雪舟ゆかりの禅寺として多くの人々に親しまれています。春の新緑、秋の紅葉の名所としても知られており、座禅体験を通じて禅の心に触れる機会を提供しています。宝福寺は、岡山県に残る近世禅宗寺院の代表的な建物であり、その歴史と文化財は後世に伝えられるべき貴重な遺産です。