笠岡諸島は、瀬戸内海の中部に位置し、岡山県笠岡市に属する島々で構成されています。通称「備中諸島」とも呼ばれ、大小30余りの島々から成り立っています。笠岡諸島は瀬戸内海国立公園に指定されており、2019年には日本遺産に認定されました。
諸島には8つの有人島があり、差出島、高島、白石島、北木島、大飛島、小飛島、真鍋島、六島がそれに該当します。また、瀬戸内海は笠岡諸島を境に、東側を水島灘、西側を備後灘と呼び分けられています。笠岡諸島は、東側には塩飽諸島、西側には芸予諸島の一部である走島や宇治島が隣接しています。
笠岡諸島は、北北西から南南東に連なる断層帯に沿って島々が並び、この地形的特徴が形成されています。特に北木島や白石島の西海岸は、断層崖が発達しており、瀬戸内海の地形形成にも関与しています。これらの島々の多くは花崗岩で構成されており、神島だけは流紋岩でできています。
各島は山が多く、平地が乏しいため、海岸沿いや山肌に集落が形成されています。また、笠岡諸島は潮境にあり、東側が水島灘、西側が備後灘に分かれています。特に高島と白石島の間の白石瀬戸は潮の満ち引きが激しく、干潮時には潮が引き、満潮時には潮が満ちる現象が見られます。
笠岡諸島には、旧石器時代から縄文時代、弥生時代にかけての遺跡が数多く出土しています。特に、旧石器時代の遺跡は本土よりも明地島や高島に多く見られます。縄文時代以降の遺跡は各島から広く発見されており、高島の王泊遺跡は古墳時代から奈良時代にかけて製塩を行っていた大集落の存在を示しています。
また、大飛島には奈良時代から鎌倉時代にかけての祭祀遺跡があり、ここでは三彩器や銅鏡が発見されています。これらの遺跡は、古代の遣新羅使や遣唐使、太宰府へ向かう役人たちが航海の途中で立ち寄り、神事を行ったことを示す証拠とされています。
『日本書紀』や『古事記』によると、神武天皇が東征の際に笠岡諸島に行宮を設け、数年間ここで暮らしたと伝えられています。平安時代には、真鍋氏が笠岡諸島を支配し、源平合戦では平家方について戦ったと言われています。鎌倉時代以降は陶山氏が勢力を持ち、室町時代から戦国時代にかけては毛利氏や小早川氏が進出し、水軍の拠点となりました。
近世には備後福山藩の支配下に入り、港湾が整備され、瀬戸内航路の要港として発展しました。江戸時代には笠岡湾や笠岡諸島で盛んに干拓が行われ、多くの島が本土と地続きとなり、経済的にも重要な位置を占めました。
笠岡諸島では、古くから山の斜面を利用した畑作が行われ、特にウシの飼育が盛んでした。しかし、人口の増加に伴い、耕作地の拡大が進むと、ウシの飼育が困難となり、漁業や水運業への依存が高まっていきました。北木島や白石島では石材の産地としても知られており、特に近世にはイワシの産地として有名でした。
経済構造の変化により、漁業や水運業、石材業が低迷すると、各島では観光業が盛んになりました。2005年には地域おこしの一環として「しまべん」という特産品の弁当が発表され、農林水産大臣賞を受賞しました。また、笠岡諸島は四国や広島に近いことから、方言や文化に多様性が見られます。
特に、岡山弁を基盤にしながらも、四国方言や広島弁の影響が見られる地域もあります。例えば、「恐ろしい」を意味する「きょーてー」という表現は、北木島や飛島で使用されますが、真鍋島や六島では「おとろしー」と言います。
横島は、かつて孤島でしたが、近世の干拓により本土と地続きになりました。寛永年間(1624-1645年)には干拓が行われ、横島は本土と陸続きになりました。また、南端には「大殿州」という小島がありましたが、これも干拓によって一体化されています。
神島は、笠岡港から南へ3kmほどの位置にあり、かつては手漕ぎ舟でしか接岸できない不便な離島でしたが、1970年に神島大橋が建設され、本土と接続されました。さらに、1990年には笠岡湾の干拓によって完全に地続きとなり、離島ではなくなりました。神島には、延喜式神名帳に記載された神島神社があり、古くからの歴史を持つ場所として知られています。
高島は、神島の南に位置し、笠岡港から12kmの距離にあります。属島として差出島、明地島、稲積島、小高島などがあり、1944年には国の名勝に指定されています。高島には多くの遺跡があり、先土器時代に遡るものも発見されています。また、『日本書紀』や『古事記』には、神武天皇が東征の際に高島に行宮を構えたという伝説が残っています。
白石島は、笠岡港から約16kmの距離にある有人島です。島の中央部には江戸時代に干拓された平地があり、そこに大きな港が整備されています。また、島の中央には高さ10メートルの花崗岩があり、国の天然記念物に指定されています。白石島は瀬戸内海の重要な港として古くから知られており、西国大名の参勤交代路として頻繁に利用されました。
北木島は、笠岡諸島で最大の島で、笠岡港から25kmの距離にあります。北木島は山が多く、平地が少ないため、主要な集落は北岸と南岸に形成されています。島で産出される「北木石」は、国内外で高い評価を受けており、大阪城や京都の五条大橋、靖国神社の鳥居などに使用されています。
飛島は、大飛島と小飛島から成り立っており、笠岡港から約25kmの距離にあります。引潮の際には、大飛島から小飛島へ向かって現れる砂州が有名で、この砂州には祭祀遺跡があり、古代の遺物が発見されています。近年、砂州が縮小していることが確認されていますが、その原因は明らかになっていません。
真鍋島は、笠岡港から約30kmの距離にある有人島です。島には古くからの漁村の風景が残り、1980年代には映画『瀬戸内少年野球団』のロケ地としても利用されました。また、真鍋島は「花の島」としても知られ、かつては寒菊の栽培が盛んに行われていました。
六島は、岡山県の最南端に位置する有人島で、笠岡港から約33kmの距離にあります。戦前は活魚の輸送で日本一を誇っていましたが、戦後に船舶の動力化が進むと次第に衰退しました。六島は、横溝正史の『獄門島』の舞台としても知られ、1977年の映画化では実際に六島で撮影が行われました。
笠岡諸島は古来から瀬戸内海航路の重要な港として利用されてきましたが、現在では大型船の入港が困難なため、笠岡港からの定期航路や海上タクシーが主な交通手段となっています。また、各島の港は小規模で、旅客船、漁船、釣り船、プレジャーボートが共用しているため、交通機能は限定的です。
さらに、六島の南には燧灘との潮境があり、潮流が早いため海難事故の危険が高い場所として知られています。このため、六島には灯台や信号所が設置されていますが、笠岡港の老朽化や駐車場不足などが問題視されています。