岡山県 » 倉敷

大橋家住宅

(おおはしけ じゅうたく)

大橋家住宅は、岡山県倉敷市阿知に位置する町屋建築で、国の重要文化財に指定されています。この住宅は、江戸時代に新田開発で大きな財を成した大橋家が1796年(寛政8年)に建てたものであり、倉敷を代表する町家のひとつとして知られています。長屋門や倉敷窓、倉敷格子といった特徴を備えた重厚な造りが、往時の商家の姿を現在に伝えています。

大橋家の歴史と住宅の特徴

大橋家の成り立ちと財の形成

大橋家は、江戸後期の倉敷において塩田や新田開発により財を成した大地主であり、大原家とともに「新禄」と呼ばれる新興勢力を形成していました。大橋家の住宅は、主屋が通りに直接面することなく、前庭を隔てて門の奥側に配置されるという特徴的な構えを持っています。これにより、住宅全体に格式と威厳が漂う設計がなされています。

住宅の建築と文化財指定

大橋家住宅の主屋は本瓦葺で、二階建ての構造となっており、一階には倉敷格子、二階には倉敷窓が備えられています。また、米蔵と内蔵は土蔵造りで「なまこ壁」が特徴的です。これらの建物は、往時の新禄層の屋敷構えをよく伝えており、倉敷町屋の典型を示すものとして評価されています。そのため、昭和53年(1978年)には主屋、長屋門、米蔵、内蔵の4棟が国の重要文化財に指定されました。

保存修理と復元

平成3年から7年にかけて、3年4か月を要した保存修理工事が行われ、住宅は嘉永4年(1851年)の姿に復元されました。この修理工事では、建物の全解体を含む大規模な作業が行われ、当時の格式の高さと繁栄ぶりを再現することができました。現在、この住宅は一般に公開され、往時の姿を伝えています。

大橋家の歴史的背景

大橋家の起源

大橋家の先祖は豊臣氏に仕えた武士であり、1615年の大阪落城後、京都五条大橋辺りに隠れ住んだと伝えられています。その後、江戸時代初期に備中中島村(現倉敷市中島)に移り住み、1705年には現在の倉敷に住むようになりました。

大橋家の繁栄と社会的地位

大橋家は代々中島屋平右衛門を名乗り、水田・塩田を開発して大地主となり、金融業も営むことで財を築いていきました。天保の飢饉(1833~1836年)の際には金千両を献じ、名字を名乗ることが許されました。また、讃岐の直島に塩田を開いた功績により、帯刀を許され、1861年には倉敷村の庄屋を務めました。

大橋家住宅の建物の歴史と構造

建物の配置と特徴

大橋家住宅は、街道に面して長屋を建て、その内側に前庭を隔てて主屋を構えた配置が特徴的です。このような配置は、通常の町屋では許されないものであり、倉敷代官所の許可があったことを示すものです。主屋は入母屋造りで本瓦葺き、屋根裏に部屋と厨子を設けた重層の建物が主体となっています。

保存修理工事と復元

「普請覚」のほか、棟札や墨書等の資料から、寛政8年(1796年)から寛政11年(1799年)にかけて主要部分が建築され、その後、文化4年(1807年)と嘉永4年(1851年)の2度にわたって大改造が行われたことが判明しています。平成3年から7年にかけて行われた保存修理工事では、嘉永4年の姿に復元され、当時の格式の高さと繁栄ぶりが再現されました。

大橋澤三郎の功績

大橋澤三郎の略歴

大橋澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年 - 1889年)は、岡山県出身の実業家で、倉敷紡績の設立者として知られています。澤三郎は万延元年(1860年)に生まれ、後に倉敷村の大橋家に婿養子として迎えられました。経済に明るく、新知識を持っていた澤三郎は、地元有力者とともに「知識交換会」を結成し、1887年に倉敷紡績を設立しました。

倉敷紡績の設立と澤三郎の貢献

澤三郎は倉敷紡績の設立に尽力し、取締役に就任しましたが、工場建設途中に病を得て、明治22年(1889年)に30歳の若さで亡くなりました。彼の功績は、倉敷の発展に大きく寄与したものとして評価されています。

Information

名称
大橋家住宅
(おおはしけ じゅうたく)

倉敷

岡山県