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玉島 町並み 保存地区

(たましま まちなみ ほぞんちく)

玉島町並み保存地区は、岡山県倉敷市玉島地域の玉島地区に位置する町並み保存地区であり、1995年(平成7年)に岡山県によって指定されました。

この保存地区は、町並み重点整備地区と周辺景観保存地区から構成され、新町(玉島中央町1丁目の一部)、仲買町(玉島阿賀崎の一部)、矢出町(玉島3丁目の一部)の3つのエリアで構成されています。

玉島はかつて瀬戸内海に浮かぶ島々に囲まれた地であり、江戸時代(元禄)に新田開発により堤防が築かれました。これにより、玉島特有の都市構造が形成され、北前船の寄港地および高瀬舟の水運で物資が集散する港町として繁栄しました。現在でも、虫籠窓や漆喰壁、なまこ壁をもつ本瓦葺き塗屋造りの商家や土蔵が数多く現存しています。

2017年(平成29年)には、玉島町並み保存地区を含む倉敷市のストーリー「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」が日本遺産に認定されました。

玉島町並み保存地区の歴史

始まり

1642年(寛永19年)、水谷勝隆が備中松山藩主となり、玉島港の建設や新田開発、そして問屋町の建設が始まりました。高瀬通が開かれ、玉島と松山間の幹線水路が整備され、2代藩主の水谷勝宗と3代藩主の水谷勝美によって水路の整備が進み、舟の運航の便が図られました。

全盛期

新町問屋街には、西国屋や大国屋などの43件の問屋が軒を連ね、北陸と上方を結ぶ西回り航路が確立され、玉島は北前船の寄港地として繁栄しました。1671年(寛文11年)には、柏島の丸山と羽黒山をせきとめる新町堤防が建設され、商業活動が活発化しました。

衰退期

しかし、玉島港は三藩による分割支配や品質低下などの要因により衰退しました。新町の問屋は当初43軒ありましたが、18世紀後半には急激に減少し、1779年には13軒にまで減少しました。

現代

1960年(昭和35年)、玉島港は水島臨海工業地帯の発展に伴い、水島港玉島港区として重要港湾に編入されました。そして1995年(平成7年)、岡山県知事により県下で8番目の町並み保存地区に指定されました。

新町地区の概要と歴史

新町地区の概要

新町地区は、玉島町並み保存地区の中央部に位置し、現在の倉敷市玉島中央町1丁目の一部です。江戸時代初期に港湾施設を建設するために海中に築かれた堤防上にあるため、周囲よりも標高が高く、港に接しているにもかかわらず、北側にも船着場の遺構が残されています。

新町地区の歴史

1671年(寛文11年)、備中松山藩主水谷氏の普請を受けた大森氏による干拓事業により、羽黒神社から柏島丸山を結ぶ堤防が建設されました。この堤防は港湾交易施設としても利用され、港に臨む堤防南面には蔵が、北側には問屋街が形成されました。

新町の名所

仲買町の概要と名所

仲買町の成り立ち

新町の発展とともに仲買人たちが周辺に移住し、栄えていった地域が次第に仲買町と呼ばれるようになりました。

仲買町の名所

まとめ

玉島町並み保存地区は、江戸時代の商業活動の中心地であり、今日でもその歴史的価値が守られています。新町や仲買町には、歴史的建造物や商家が数多く残されており、訪れる人々にその時代の繁栄と文化を感じさせます。この地区の保存活動は、地域の歴史と文化を後世に伝えるために重要な役割を果たしており、観光地としても多くの人々に愛されています。

Information

名称
玉島 町並み 保存地区
(たましま まちなみ ほぞんちく)

倉敷

岡山県